代表取締役社長 田所 雅之

プロフィール
これまで日本と米国シリコンバレーで合計5社を起業してきたシリアルアントレプレナー。シリコンバレーのベンチャーキャピタルのベンチャーパートナーを務めた。現在は、国内外のスタートアップ数社の戦略アドバイザーやボードメンバーを務めながら、事業創造会社のブルーマリンパートナーズのChief Strategic Officeを務める。世界で累計5万シェアされたスライド”Startup Science” の著者である。

経歴

2001~


2001年、関西学院大学卒業後、米国アリゾナ州立大学哲学部に留学し、科学哲学(philosophy of science)を学ぶ。
科学哲学には、物理学、生物学、自然科学、社会科学などの素養が必須であるため、大学図書館にあったリベラルアーツの数百本のビデオを鑑賞。書籍も数百冊読み、内容と共に、情報処理の仕方、メタ的にインプット・アウトプットする方法を学ぶ。
アメリカで哲学を学んだ人間は、アカデミアになるのはごくわずかで、その大半が弁護士になる。思考実験とロジカルシンキングを徹底的に訓練し、弁護士予備軍たちと3年間ディスカッションを重ねる中で英語力を身につけた。

2004~


アメリカ留学の集大成等して英語で哲学の論文を書き、大学院の博士課程に応募して、アカデミアになろうと思っていた。しかし2004年、家族の事情により帰国(両親が別居してしまったので、留学どころではなくなった)そのまま、バイトでもしながら、高い 学位を目指す道もあった。しかし、その時25才。既にいい歳だ。日本の友達はみな働いていた。
本質的な学問を通じて視座/英語力を身につけ、自国以外のカルチャーにどっぷり使って世界観を広げる、というのも留学の目的のひとつだったので、アカデミアは道半ばだったが、人生を方向転換する。

帰国後、通訳エージェントに登録し1年間フリーで通訳をする。最初の仕事は、IBMのプロジェクトでアサインされる。プロジェクトでは同時通訳を期待されるが撃沈し2ヶ月で解雇になる。その後、通訳兼プロジェクトアシスタントというポジションでInfosysというのインドの最大大手のBPOのプロジェクトに入る。システム系の企業の仕事が立て続けにあり、1年程のOJTで同通の技術も身につく。またアカデミックのバックグラウンドがあったので、北海道大学/東大/京都大学/慶應大学のカンファレンス/学会などの引き合いが多く来て活動する。(東大の数学のカンファレンスの通訳を任された 日仏修好150周年記念 IHES創立50周年記念 日仏科学フォーラム )

2005~


その後、ドイツ系のシステムベンダーSAPに入社。当時の社長ギャレット・イルグ氏のアシスタント/通訳 兼コンサルタントのポジションに就く。SAPでは社長のアシスタントとして、様々な大手プロジェクトの戦略策定や業務改善(BPR))を担当。グローバルカンパニーのエクゼクティブの横で、その凄まじい仕事ぶりを目の当たりにする。

SAPジャパンを退社後、アメリカの大学の先輩が立ち上げた企業向けの研修会社AZコンサルティングに専務取締役として参画。「1週間でわかるMBA」「ロジカルシンキング講座」「経営戦略講座」など斬新なコンテンツを作りをサポート。自分も研修やコンサルをデリバリーできるように、300冊ほどMBA関連(ファイナンス、戦略、人事)を読破する。多くの大手企業に対して、研修/デリバリーを行う。

AZコンサルティングから独立し、「ランチェスターコンサルティング」という屋号の個人事業でコンサル事業を開始。身につけていたワークショップ/デリバリー/知見をベースに、企業向けの人事コンサルや経営戦略コンサルを提供した。フリーで続けていた同時通訳はシリコンバレー/IT系の企業の仕事が多くなる。通訳業界でもかなり上のランク(Aクラス一歩手前)まで行具ことができた。世界経営者会議、APEC、内閣府などの通訳も任されるようになった。プロの同通になることも考えたが、通訳は自分の身一つでレバレッジが効かないと感じた。生業としていたコンサルも魅力的だったが、事業そのもののオーナーシップがない。ということで、興味は「ゼロイチ」の起業に向いていった。

2010~


当時のビジネスパートナーとアイディアを出しながらビジネスプランを立て、初めてスタートアップ起業を考えた。せっかくやるならシリコンバレーと意気込んだ。振り返ると、「起業することが目的の起業」という形の起業だった。

デラウェア州で「Bulqy inc.」という名前の会社を登記(通常、法人税が低いデラウェア州で登記を行う)シリコンバレーのど真ん中ロスアルトスにオフィスを借り、サニーベールの友人宅に居候しながら、シリコンバレーで活動した。自らの貯金を食い潰しながら、日本とアメリカを行き来する生活が続いた。生活費を稼ぐために、日本に帰って3〜4日通訳して数10万円を稼いでまた渡米する、そういったリズムの生活が一年以上続いた。

起業家としてやるべきことを手探りでやりながら必死でもがいていた。エンジニア探し、プロダクトを作り、マーケティング、顧客インタビュー、など色々と活動をしていただ、それまで経験のある事業(コンサルティング、研修事業) のやり方と、スタートアップのそれは全く異なり、途方にくれる毎日だった。

振り返ると、スタートアップ起業家としてやっては駄目なことを全てやっていた。事業アイディアとしては、経験が全くなかったが「面白そう」「儲かりそう」という理由だけで、eコマースのプラットフォームを起案した。顧客とろくに話をせずに、思い込みでプロダクトを作った。自ら開発ができなかったので、どうにか伝手を辿ってエンジニアと巡り逢うが、すぐに仲違いしてしまう。また、資金もどんどん減ってきて、資金調達に奔走するが、どの投資家も振り向いてくれなかった。自分たちが何やっているのかもわからない、自分たちがやっていることに確信がないスタートアップところには誰もお金は出してくれない、そんな状況だった。

2012年10月末、創業から1年半で共同創業者が夜逃げした。彼は、いろいろなところから相当借金をしていたみたいで、携帯も止められ、連絡が付かなくなった。と同時に、自分の銀行残高も尽きそうだった。2012年11月、Bulqy inc.を畳むことを決心。

この苦い体験が、後の「起業の科学」創作に繋がっている。起業家たちに、自分と同じような過ちを繰り返して欲しくなかった。

2013~


日本に帰国し、就職活動をした。幸い、いくつか内定はもらえた。しかし、「自分は失敗しきれていない」と思い。更に深く起業に関わることを決めた。2013年3月にSkillhubにCOOとしてジョインした。シリコンバレーで一番苦労したのはエンジニアを探すことだったので、エンジニアを創出するプラットフォームをやりたいと感じていた。また研修事業をやっていたこともあり、教育にも強い興味があった。

ここから数年間、週2で通訳、週5でSkillhubで働いた。通訳という職が手にあって救われた。体力的、時間的には相当厳しかったものの、通訳をやっていたから起業家を続けられた。起業は運転資金の有無によって存続の如何が変わる。結局、お金が尽きてきたら人間は心を蝕まれる。ミッション・ビジョンの前に、資金が大切だ。

Skillhubでは起業家として純粋にビジョンを追いかけ、あらゆる手を尽くした。共同創業者は、エンジニア/デザイナー加えて作曲家もできるというマルチタレントだった。しかし、ビジネスの経験がなかった。自分はシリコンバレー起業、SAPでのコンサルティング、AZコンサルティングでのマネジメント経験があり、一通りのビジネスの基礎を押さえていたので、ビジネスサイドの責任者としてSkillhubの成長を追いかけた。

自分はシリコンバレーという場所が非常に好きだった。株式会社Ishin (当時の名前は株式会社幕末)という会社と組む機会があり、上場企業の社長や経営陣をシリコンバレーに連れて行くツアーを作ったり、日本企業のシリコンバレー進出の支援を行っていた。何十人もの経営者をサンノゼやサンフランシスコに連れていく中で、Fenox Venture Capital(現ペガサス・テック・ベンチャーズ)のCEO アニス・ウッザマン氏に出会った。アニスから、日本のベンチャーパートナーにならないかと声がかかった。自分も、起業家としてVCというポジションを知り、非常に強い興味があったので、受けるという返事をした(ベンチャーパートナーとしてFenoxには2017年末まで在籍していた)Fenoxでの担当は日本と東南アジアだったので、東南アジアによく行った。

ここで、時折物議を醸す「Due Dilligence 」という表現について解説したい。
米国のVC業界では「スクリーニング」とは言わずに「アーリーデューデリジェンス」という言い方をする(少なくとも僕がいたVCではこう表現していた)
自分はFenoxの主な役割はスタートアップのソーシングだったので、相当数のスタートアップから毎日のようにピッチは受けていた。(大体、週で10件以上のスタートアップからピッチを受けて評価をしていた。) 
他のVCからの紹介や、ピッチイベント審査員も数多くやった。「パイオニアズアジア」という、日経新聞とパイオニアズのスタートアップイベントの、スタートアップの責任者もやっていた。その時に992社のスタートアップの評価をした。
これも入れたら4年の期間で、2,000社近くのスタートアップを評価した。

2014~


2014年から2017年までは、Fenox(ベンチャーキャピタリスト) とSkillhub(起業家) として活動を同時進行していた。VCでほぼ毎日ピッチを受け、様々なスタートアップからアドバイスを求められる。同時にスキルハブのCOOとして経営もすると、ものすごい情報量のインプットとアウトプットがあり、どうにかしてまとめないと頭が混乱すると感じた。

そこでスタートアップの起業プロセスに関するスライドを作り出した。最初はSkillhub上に書いた。ブログ記事を書き出すと、さらにコンテンツを追加したくなった。「成功するスタートアップの作り方」という780ページのスライドを作ってシェアしたら、バズった。これがいわば「起業の科学バージョン1.0」だ。

2017~


2017年に1219ページのスライド「スタートアップサイエンス」を出し、これが物凄い勢いでバズった。そして日経BPからこのスライドを出版することが決定した。 

また同時期に、株式会社ユニコーンファームを設立。起業家としての日米での活動、メジャーキャピタルやアドバイザーとしての活動経験の集合知として「スタートアップサイエンス」ができ、そして『起業の科学』が出ることから、ユニコーンファームとして活動することを決めた。

2017年11月、『起業の科学』がこの世に産声を上げる。

『起業の科学』は発売前に中国語と韓国語と台湾語からのオファーがあった。また、発売前に重版、発売4日後に3刷り、1ヶ月後に4刷りになり、1ヶ月で2万部程売れて、仕込んでいた以上の講演依頼が殺到し、様々な問い合わせもきた。「プロダクトマーケットフィット」を自ら体現できたことを確信した。

しかし、2017年の末、講演中に倒れた。過労だった(プロジェクトを5つこなしながら、毎週講演を4-5本やっていた) 当時はパートタイムのアシスタントが2名いただけだった。
そうこうしているうちに、企業の新規事業を見て、色々な審査員をやって、と一人では回らなくなってきた。

2018~


2018年、2019年となり共に活動するメンバーが増えはじめた。同時に、様々な事業を開始する(スタートアップ経営者塾事業創造サロンエンジェルピッチアクセラレータb-sket) 。
2020年になり、『御社の新規事業はなぜ失敗するのか』『起業大全』も出版された。

次の市場/産業の担い手であるユニコーン1000社を創造する。そのためのプラットフォームを作っていく。その道のりはまだ始まったばかりだ。まだまだ、仕込んでいくし、仕掛けていく。